ハゲ親父のささやき

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コントの求道者、志村けんはソウル・ミュージックにも造詣がめちゃくちゃ深かった!

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こんにちは、カズノコです。

 

 

新型コロナウィルスに感染し、闘病していたコメディアンの志村けんさんが3月29日、肺炎のために亡くなりました。70歳でした。

 

 

やはり8時だョ!全員集合のドンピシャ世代ですからね…。志村けんドリフターズの正式メンバーになったのは1974年。小学3年生だった私は、それこそ毎週土曜日の夜8時にはテレビにかじりつくようにして、「8時だョ!全員集合」を観ていました。

 

 

今から考えると8時だョ!全員集合」ってすごい番組でしたよね…。視聴率も最盛期には40~50%を誇り、「お化け番組」とか「怪物番組」とか呼ばれ、まさに無敵でした。

 

 

番組前半はいかりや長介をリーダーに、加藤茶高木ブー仲本工事荒井注の5人のメンバーを中心としたコントを、大掛かりな回り舞台で演じ、最後に凝った仕掛けで建物が崩壊したり、本物の自動車が飛び込んできたりするオチは豪快そのものでした。これを公開生放送で毎週やっていたなんて、今では絶対不可能ですよね…。

 

 

でも、それだけに観客の子どもの声援やおとなのどよめきが半端なく伝わってくるんですよね。当時の売れっ子アイドルや人気歌手がドリフとからむショートコントも懐かしいですね…。歌手の歌の部分は小学生のガキには興味がなく流していましたが…。

 

 

そんな5人のドリフの面々に時々「見習い」として若いメンバーが参入してくることがありました。印象に残っているのは何と言ってもすわしんじですね。奇声を上げてやたら走り回ったあげくズッコケるブルース・リーなんかの役がそれなりに面白かったですが、ドリフのメンバーの洗練された(?)ギャグに比べると、かなり粗削りというか、出たとこ勝負のところは子ども心にも感じていました。「見習い」はもう一人いて、長髪のあまり目立たない方の「見習い」が志村けんだったんですね…。

 

 

1974年メンバーの一人荒井注が脱退して、志村けんドリフの正式メンバーになります。いかりや長介はすわしんじの昇格も検討していましたが、長年ドリフに付き、コントの作り方も良く知っている、志村を加入させた方がいい」加藤茶が強く主張し、これにいかりや長介も折れて、志村けんが起用されることになります。

 

 

この頃のドリフのメンバーでは圧倒的に加トちゃんこと加藤茶に人気があり、私の中でも絶対的なカリスマでした。志村けんは相変わらず目立たない存在でしたが、8時だョ!全員集合の名物コーナーである「少年少女合唱隊」の中で歌った東村山音頭で状況は一変、志村けんは一躍人気者になります。

 

 

ちなみに東村山音頭4丁目、3丁目、1丁目と3曲ありますが、志村けんの地元である東村山市の「東村山音頭」をリメイクしたのが4丁目。いかりや長介が作詞・作曲したのが3丁目。さらに、志村けんが作詞・作曲(と言うのかな…)による1丁目が加えられて、3曲構成となったそうです。東村山音頭」名曲ですよね…。当時、この曲を知らない小学生はいなかったんじゃないでしょうか?

 

 

志村けんの人気がブレイクした後は、加藤茶が一手にギャグを受け持つ存在から、志村けん加藤茶のコンビで笑いを生み出す存在へ変化させました。このことは後に大ヒットしたコント「ヒゲダンス」を生むことになります。

 

 

「少年少女合唱隊」で思い出しましたが、このコーナーの「ドリフの早口ことば」生麦生米生卵~っ」ってやつです)のバックで流れている自然と体が動くファンキーな曲の元ネタがウィルソン・ピケット「Don't Knock My Love」であることを後年知りました。

 

 

また、ヒゲダンス」志村けん加藤茶が軽妙な動きで踊り、コントを次々披露するバックのBGMはテディ・ペンターグラス「Do Me」のリフをアレンジしてループしたものです。

 

 

ウィルソン・ピケットの「Don't Knock My Love」は後にダイアナ・ロスマーヴィン・ゲイによってカバーされたほどのヒット曲ですが、テディ・ペンターグラスの「Do Me」なんてヒット曲でも何でもない曲なんですね。それを日本人なら誰でも知っている曲にしてしまうのが、志村けんのスゴさですね…。

 

 

志村さんは、ソウル・ミュージックはもちろん、あらゆる分野の音楽に興味を示し、自宅には膨大な数のレコードやCDのコレクションがあったとのことです。それだけではなく、日本の戦前・戦後の喜劇映画やテレビ番組や落語のビデオを集め、海外からコント番組やコメディ映画のビデオを取り寄せてはチェックする習慣があり、家にはレンタルビデオ店が開けるほどの本数があったとも言われています。

 

 

このことひとつとっても、ナンセンスでバカバカしさに徹したコントに対するストイックな姿勢と研究熱心がうかがえると思います。古今東西のお笑いに対する造詣の深さとセンスがあり、さらにそのギャグやコントを「芸」として高める努力を終生忘れなかったからこそ、志村さんの笑いがあらゆる世代に時代を超えていつまでも愛され続けるのでしょう。「同じものを何度見ても、わかっていても笑ってしまう、それが芸です」と志村さんは答えています。

 

 

志村さんは「私の笑いは動き7、しゃべり3」と語っていたように、ぎくしゃくとした独特な動きを演じて笑わせる芸は、老若男女、おとなも子どもも、世界中の誰からも愛されました。また、多摩弁を取り入れたとぼけたしゃべりにも親しみやすさがあふれていました。これだけ数多くの歴史に残るコントの傑作・名作を残し、演じ続けてきた喜劇人は他にいないでしょう。

 

 

志村さんは70歳を迎え、さらなる新境地を見せてくれるはずでした。映画鉄道員(ぽっぽや)」(1999)に一度出たきり、映画、ドラマの仕事をずっと断ってきた志村さんが、山田洋次監督の新作映画「キネマの神様」への主演、NHK連続テレビ小説「エール」への出演を決めていました。先に逝かれたいかりや長介さんのように、人生の哀愁がにじみ出るような演技が見られたに違いありません。今となっては惜しいとしか言いようがないですね…。

 

 

志村さんが50年にわたって残してきた偉大な功績をたたえるとともに、心からご冥福をお祈りしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

ウィルソン・ピケットは サザン・ソウル・シンガーの代表的存在で「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」、「ダンス天国」などのヒット曲があります。このCDは彼の代表曲が網羅され、「ドリフの早口ことば」の元ネタ「Don't Knock My Love」も収められています。